★★ 今日の謎!
その謎1:
「声聞衆の無漏の後身 法王の子なる」とはどういう意味なのでしょう?
その謎2:
「光明世尊 其の事是の如し」の事は何を意味するのでしょう?
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■■第4-6日 Vol.90
無漏の後身 法王の子なる
【授記品第六】
(十八~二十六行)
■■今日の一偈一句
ソ ドショウジョウ ルリ ジ ナ モロモロ ホウジュオオ ミチ ホトリ ギョウレツ
其の土清淨にして 瑠璃を地と爲し 諸 の寶樹多くして 道の側に行列し
コンジョウミチサカ ミ モノカンギ ツネ コウコウ イダ モロモロ ミョウケ サン
金繩道を界いて 見る者歡喜せん 常に好香を出し 衆 の名華を散じて
シュジュ キミョウ モッ ショウゴン ナ ソ ジビョウジョウ クキョウ
種種の奇妙なる 以て莊嚴と爲し 其の地平正にして 丘坑あることなけ
モロモロ ボサツシュ ショウケイ ソ ココロジョウニュウ ダイジンヅウオヨ ショ
ん 諸 の菩薩衆 稱計すべからず 其の心調柔にして 大神通に逮び 諸
ブツ ダイジョウキョウデンブジ モロモロ ショウモンシュ ムロ ゴシン ホウオウ ミコ
佛の 大乗經典を奉待せん 諸 の聲聞衆の 無漏の後身 法王の子なる
マタハカ スナワ テンゲンモッ カゾ シ アタ ソ ホトケ マサ ジュ
亦計るべからず 乃ち天眼を以ても數え知ること能わじ 其の佛は當に壽
ジュウニショウコウ ショウホウヨ ジュウ ニジュウショウコウゾウボウマタジュウ ニ
十二小劫なるべし 正法世に住すること 二十小劫 像法亦住すること 二
ジュウショウコウ コウミョウセソン ソ ジカク ゴト
十小劫ならん 光明世尊 其の事是の如し
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1. 今 日 の 解 読 ! (苦)
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その国土は清淨で 瑠璃をその地とし 諸々の宝樹がたくさんあり 道路に沿
って行列し 金繩が道路境界を敷いて 見る者を歓喜させる 毎日良い香りを
漂わせ さまざまな種類の名花を散じて 種々に奇妙な演出を用い それによ
り荘厳となし その土地は精巧に均整のとれた平坦であり 無用なでこぼこは
ない 住する諸々の菩薩衆は その数計り知ることはできない その心はとて
も調柔にして 大神通の逮得に至れり 諸佛の大乗経典を奉待している 諸々
の聲聞衆は 無漏の最後身であり 法王の子であり その数も計ることはでき
ない たとえ天眼をもってもそれを数え知ることはできない その佛は実に寿
命は 十二小劫となり 正法世に住すること 二十小劫 像法また住すること
二十小劫なり 光明世尊の その授記の内容はこのとおりである。
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2. 今 日 の 説 法 ! (集)
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今回は、前回からの摩訶迦葉への授記に関して釈迦が繰り返し偈を説いて説明し
ている続きです。
この再度説く偈の中で、あらたに加えられているところは、迦葉の未來に光明如
來として住む国の菩薩衆は諸佛の大乗経典を奉持するということと、声聞衆は無
漏の最後身となることや法王の子であるということです。
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3. 今 日 の 謎 ! (滅)
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さて、今日の謎を整理して見ることにしましょう!
その謎1:「声聞衆の無漏の後身 法王の子なる」とはどういう意味なのでしょう?
⇒ 無漏とは煩悩に漏れがなく不安や迷いが解決されていることを意味し、後身とは最後身のことであり二度と人間としてはこの世に生まれて来ない覚悟の身ということです。なお、法王の子とは例えば文殊師利法王子菩薩のその名前に法王子と付いている菩薩ですね。また、釈迦の弟子であり仏子と言われている舎利弗は菩薩ではなく声聞なのですが王子でもあったようです。ただし、舎利弗の親が法王だったかは法華経には書いてありません。とにかく声聞衆であっても無漏の最後身や法王の子という立場は声聞の中でも身分の高い者ばかり居るということでしょう。
その謎2:「光明世尊 其の事是の如し」の其の事とは何を意味するのでしょう?
⇒ 教えに対する義と事の違いが気になるところですが、今回に対する先月の前行の部分を見返してみますと、「此の義を宣べんと欲して、偈を説いて言わく」と、釈迦は義を述べたいと前置きした後、今回の偈の中で、其の事は是の如しと言っています。つまり、事について義の表現で伝えたということになると思います。また、是の如しとは「このようなものである」と解釈できると思いますので、「事」の正式な内容をほぼ解かり易く想定させる「義」を用いて伝えたという意味に考えられます。
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ぶっけん成安田 (木曜日, 06 4月 2017 00:23)
あの世から降りてきている仏様のことを如来というと思いますが、如来という名前の感じから、どうも神様のようなイメージを連想しませんでしょうか?
また、この世に君臨する如来として人間に等しいお姿をされていて、支持する衆生の代表の中には王様や王子、はたまた実際に様々な種類の神様まで居るのです。
国の王様といえば通常は神様信仰の代表者というイメージがあると思いますが、その通常に国ごと信仰の対象にされる神様すらを信仰者にするくらいが如来だといえると思いますので、神様と言えどこの世のことは如来から知ろうとしていると考えても良さそうだということになりそうです。