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イエス・キリストの生誕の記録、つまり聖書と、この法華経の編さんの始まりに
は必ず意味深い関係があるものと思います。
世界が太陽暦に統一され西暦年号でやり直そうと試みた時、その主導の動きは聖
書による神の教えを主流とした変化革命だったのでしょう。
イエス・キリストは神の使いとしてこの世へ降誕したのであり、仏法の観点から
すれば如來の存在と非常に類似して考えられ易いと思います。
両者はこの世への救済としては同じ役割りを持っていますね。
しかし、その手段の用い方として両者には相反する違いがあるのです。
キリストは、この世の人間には受け入れられず、人間の手による犠牲となり処刑
をされることをもって、救済の手段としました。これはある意味では、神への生
け贄となって神の怒りを静める代表者という判断にも思えます。
ではこれに対し、釈迦如來は、宇宙の神へ納得させる戦略手段をこの世へ講じさ
せる指導者的立場を役割り、その戦略を実行する代表者はこの世の菩薩というこ
とになると思えます。
菩薩は、この法華経の中で身命を惜しまず、と釈迦へ誓約していますが、この菩
薩の覚悟がキリストの受けた制裁に近いのではないでしょうか。
ただ、菩薩の場合は魔の攻撃や民衆から処刑されないように菩薩同士が守り合う
組織的な防衛策が整えられていこうとする仕組みであると考えられます。
つまり、キリストと如來の相違点は、キリストはこの世の正しい習慣や行いを作
らせるためにこの世へ現れた単独の神の子であり、それに対し、如來は、あの世
の無数の佛を代表してこの世へ現れ、菩薩集団のみを用いて戦略組織を結成させ
ることを目的とし、この世を正しく直させるための、ある意味では佛から出た神
の使いと考えることができるようです。
簡単に考えれば、全人類への救済手段に関し、キリストは民衆に対し単独に負け
ることを選び、佛は民衆に対し集団で勝つことを選んだといえるでしょう。
安田 和正