★★ きょうの謎!
その謎1:この同じ会場に居る新發意の菩薩八千人は、阿難・羅侯羅のみならず、
声聞弟子二千人が授記されることまでは黙って観て居られるのでしょう
か?
その謎2:釈迦はなぜ声聞弟子ばかりに授記を与えるのでしょう?
■■第9-9日 Vol.232
同時に十方の國に於て各成佛する
【授学無学人記品第九】
(五十四~六十一行)
■■今日の一偈一句
ソ トキ セソン ガク ムガク ニン ミ ソ ココロニュウナン ジャクネンショウジョウ
爾の時に世尊、學・無學の二千人を見たもうに、其の意柔軟に寂然清淨にして
シン ホトケ ミ ホトケアナン ツ ナンジコ ガク ムガク ニン
一心に佛を觀たてまつる。佛阿難に告げたまわく、汝是の學・無學の二千人を
ミ イナ ユイネン スデ ミ アナン コ ショニン ラ マサ セカイミジンジュ ショブツ
見るや不や。唯然、已に見る。阿難、是の諸人等は當に五十世界微塵數の諸佛
ニョライ クヨウ クギョウソンジュウホウゾウ ゴジ マツゴ ドウジ ポウクニ オイオノオノジョウ
如來を供養し、恭敬尊重し法藏を護持して、末後に同時に十方の國に於て各成
ブツ ウ ミナオナ ゴウ ナヅ ホウソウニョライ オウグ ショウヘンチ ミョウ
佛することを得べし。皆同じく一號にして名けて寶相如來・應供・正遍知・明
ギョウソクゼンゼイ セケンゲムジョウジジョウゴジョウブテンニンシ ブツ セソン ジュミョウ
行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・佛・世尊といわん。壽命一
コウ コクド ショウゴンショウモン ボサツショウホウ ゾウボウミナコトゴトドウトウ
劫ならん。國土の莊嚴・聲聞・菩薩・正法・像法、皆悉く同等ならん。
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1. 今 日 の 解 読 ! (苦)
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その時に世尊は、学・無学(がくむがく:学は有学の略称で、未だ煩悩を断ち切
れていない、つまり修学すべき必要のある阿羅漢・無学は既に煩悩を絶ち尽して
いる、つまり修学すべき必要のない阿羅漢)の二千人を見廻すと、彼らは意思を
柔軟に寂然清淨のままに一心に佛を観たてまつっていた。佛は阿難に告げられた、
汝はこの学・無学の二千人を看ていくのかどうするのか。懈倦なく、阿難はすで
に看ていくつもりと答えた。阿難よ、この諸人等は見事に五十の世界を微塵にし
た数の諸佛如來を供養し、恭敬尊重し法藏を護持して、最後の生の身となってか
ら同時に十方の国に於て各々成佛することを得ることになる。皆同じく一つの號
にして名けて宝相如來・應供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈
夫・天人師・佛・世尊という。それらの寿命は一劫である。また国土の荘厳・声
聞・菩薩・正法・像法などは、皆ことごとく同等である。
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2. 今 日 の 説 法 ! (集)
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釈迦は前回、実の長子である羅侯羅への授記の意味として、羅侯羅は長子であり
今は法子として釈迦の法の中で佛道を求めており、釈迦だけが知る秘密を保持し
ている子であるが、将来は無量億のどの佛にも長子となって仕えることになると
いう偈を説きました。
今回、釈迦は、この会場に共に集まって阿難・羅侯羅への授記を聞いていた学・
無学の二千人の阿羅漢、つまり声聞弟子たちを見渡しましたが、彼らはその心を
柔らかく清涼にして一心に釈迦を見たてまつっていました。
そして、釈迦は阿難へ告げられました。
「汝はこの学・無学の二千人を看れるか見捨てるか」
「善哉、私はすでに看るつもりです」
「阿難、この諸人等はまさに五十世界を微塵にしたほどの数の諸佛如來を供養し、
恭敬尊重にして法蔵を護持して、最後身に同時に十方の国々に於て各々が成佛す
ることを得るのだ。そして皆同じく一號にして名づけて宝相如來・應供・正遍知
・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・佛・世尊という佛に成る。
寿命は一劫である。その佛の国土の荘厳・声聞・菩薩・正法・像法は、皆ことご
とく同等となる」
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3. 今 日 の 謎 ! (滅)
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まず、今日の謎を整理して見ることにしましょう!
その謎1:この同じ会場に居る新發意の菩薩八千人は、阿難・羅侯羅のみならず、
声聞弟子二千人が授記されることまでは黙って観て居られるのでしょ
うか?
その謎2:釈迦はなぜ声聞弟子ばかりに授記を与えるのでしょう?
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安田 和正 (木曜日, 08 1月 2015 22:47)
段々不可思議増えれば暮らし楽になる、形の結果より心の結果。
ぶっけん (火曜日, 08 9月 2015 21:22)
修行の道は段々との苦しくなって行くもの。そして暮らしは段々と楽になって行くもの。
仏教経済 (火曜日, 09 1月 2018 09:22)
【ゼロの発見!】
幸せというものは決して数値になって表れてくるものではありません。
私の言う幸せとは仏教で得る継続的な幸せのことです。
一般に理科解明に少し熟達して次から次と連続してラッキーな数値に恵まれることがあります。
しかし、それは一時の喜びと共に長続きしないまますぐにまた消えていきます。
そんなささやかな一瞬の喜びとは仏よりも神の祝福に近いといえるでしょう。
それら神の祝福は事前の予感と共に物事の初心の清らかさに生じます。
しかし、誰もが幼い頃からそのような不思議なラッキー体験は幾たびか経験していることでしょう。
そして、それが長く続かないことも同じく誰もが感じていることでしょう。
その感覚の答えは移行すべき時です。
不思議と長く安定し続ける事柄に対し成人した生き物は遅かれ早かれ皆、目覚めはじめます。
それら安定がいつまでも継続的に長続きする事柄は誰もが目を見張るほど不思議な驚きに思えてくるからです。
それは滅多にあることではないことを次第に冷静に知り始めます。
そこには自身の経験した過去とこれから始まる将来の完全に未確定な要素とがバランスよく混合している状態と言えそうです。
つまり、過去と未来の分量があたかも上手く溶け合っているかのようです。
これは数値がゼロということですね。
未来予測は全くないほうが良いです!
何よりとてもバランスが良いのがゼロなのでしょう!
(ぶっけん安成)